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夢も未来も日清・日露戦争と、第1次世界大戦を戦勝国としてくぐり抜けてきた日本です。“肉弾三勇士”などの勇敢な話が喧伝され、戦勝国ムードに国中が活気づいていました。 |
「この子たちのまず第一の目標は、兵となり、戦争にいき、お国のために死ぬことなのだ…」このように悟ったとき私は、もはや子どもたちを直視することができなくなりました。反戦などと軽々とは口に出せない時代です。しかし、生徒たちはまっすぐに目を向けて、教壇に立つ私の話に耳を傾けるのです。 この子たちの教師でいることに耐えられない…。 私はこの思いを誰に明かすこともなく、やがて教職を辞しました。「家の都合で…」というのが辞職の理由だったにもかかわらず、親にすら、私の本当の気持ちは話せませんでした。 間もなく日米開戦。すでに私の同級生たちは、志願して訓練兵となっておりました。12月16日以降は、そんな彼らが次々と出征していきました。私も銃後の人間の務めとして、日の丸の小旗を振って、同級生たちを見送ります。 心の優しい級友は、末っ子の甘えん坊でした。少尉に仕官した直後、沖縄への輸送船に乗ったまま魚雷に沈められ、帰らぬ人となりました。 大学へ進学していた級友も、猶予が廃されて学徒動員、沖縄の麻文仁で戦死しました。 兄とは2歳年の違う友人は、出征先で消息を絶ったまま、生死の程もつかめないままです。 戦争とは、何もかもを中途半端な状態のままにして、やりきれなさばかりを残して終わるものだと知りました。国鉄職員という仕事の関係で、夫の召集が遅かったことは、私たちにとっては運の良かったことでした。 |
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一輪の赤い花昭和19年、我が家にも“赤紙”が来ました。 |
とうもろこしは硬くて、水で戻し煮ても柔らかくならず、一家そろってお腹を壊したりしましたが、こちらは大丈夫でした。すいとんという食べ方を覚えました。製粉機は近所中で引く手あまたでした。官舎の庭で野菜を育て、汁の実にしました。チャブ台の真ん中に鍋を置き家族で囲みます。茶椀1個でこと足りる食卓。貧しいとはいえ、もう戦争は終わったのです。満ち足りた幸せがそこにありました。 札幌に転勤した頃には3人目の息子が生まれました。少しおいて生まれた4人目も男の子。どの子もみな、元気にすくすくと育ちました。 野球チームに入った子は野球に夢中。バットの先にグローブをぶら下げて、お腹がすくとおやつを食べに戻ってきました。 既製服などない時代、子どもたちの服は布地から手作りしました。大人のセーターをほぐして編み直す、靴下は毎晩繕う……。どこの家も主婦は大忙しです。 そんな折、母の日に赤いカーネーションをもらいました。 子どもたちは戦の時代を知らないまま育ちました。ふと、疑うことを知らず育ったわが子の素直さを危うげに思います。 |
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今が幸せ父は72歳、母は76歳の生涯でした。戦中戦後を通じて、国中が苦しくて大変な時代に、兄、私、その下に四人の妹たちと弟、7人の子どもを生み、慈しんで育ててくれました。 |
遠く近くの息子や娘たちに見守ってもらっているのは、1人で暮らす妹たちと同様ですが、私たちの暮らしも人手を借りることなく、こなすことができています。30年以上、血圧の関係の薬を服用している他は、取り立てていう程身体に支障はありません。有り難いことだと思います。健康に産んでくれた両親に感謝します。米寿とはいえ、まだ普通にものが見え、木々のざわめきが聞こえます。喜びや悲しみが感じられます。過去を思い、今を幸せと感じる心も、少しも鈍っておりません。それらを短歌に紡いで詠っていくのが私の喜びです。 少々立ち居振る舞いはスローモーションになりました。それでも、納得して一歩一歩進んでいければいいと思っています。 この生涯に経てきた、あの酷く無残な戦争。あの戦の後遺症は、今も心に深い傷跡となっています。決して決して、癒えることはないでしょう。 でも私は、この痛みから目をそらすまい、忘れまいと念じています。 もう二度と、あの絶望の淵へ子どもたちを立たせてはいけない。夢と希望を普通に語れる日常でありたい。子どもたちに与えられた、未来という可能性を奪ってはならない。 そう信じるからです。 これからどれほどの歳月が、私に残されているでしょう。あの戦の記憶を忘れることなく、あと幾ばくかの時間を、さりげなく過ごしてゆけたらと思っています。 |
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絵/早乙女道春 文/山口亜希子
短歌 ●おおうら せつこ1920年生まれ。北海道出身。北の大地にて生を営んできた『北の歌人』。夫の赴任先だった陸別の寒村にて、恩師と邂逅、以来50年近くに渡り、作歌を続けている。 |